「クルマ屋」ーーこの響きにはかつて憧れを抱いたこともあれば、やがて業界に入っていろんな大人の事情を直視してしまった結果、はっきり幻滅したこともある。
「クルマ屋」とひとくちに言っても、その有り様は実にさまざまで幅が広い。新車ディーラーも中古車販売業もカスタムショップもチューナーも、さらにはそれらに紐づくメンテナンスやレストアショップも、そしてどこかキナ臭いブローカーだって、皆、堂々とそして何より誇らしげに「クルマ屋です」と名乗るのである。まさに十人十色、国産・輸入、さらには世代の新旧といったさまざまな要件が重なり合うことで、「クルマ屋」の捉え方はもはや無限大の領域にまで広がりを見せている。
そう、要は何でもあり、なのだ。クルマに関わる商売ならば、誰だって「クルマ屋」になれる。経験と修練を積み上げた硬派な「クルマ屋さん」にはこんなこと書いたらどやしつけられるのだろうが、ボクは結構本気でそう思っている。うん、そういう意味ではメディアやオークションといった側面からクルマに関わる仕事(=商い)をしている筆者自身だってもはや「クルマ屋」のひとりなんじゃないかとすら、最近は思うのである。
以前にもこのコラムで書いた気がするのだけれど、そんな無限で自由な広がりを見せる今日の「クルマ屋」の中にあって、もっとも「らしい」のは「町のクルマ屋さん」ではないか——なんたって、その距離感がほどよく誰にも身近なのだから。そう、それはまさに「クルマ屋」の原点、ともいえる存在。
しかし、肝心の「町のクルマ屋さん」は最近ではその姿をめっきりと減らしている。実際、家の近所でふらっと立ち寄れる「クルマ屋さん」って、あんまりない気がするでしょ。それは今風に言えば「ショップ」という存在であり、そしてそれはあくまで日常の延長にあるもの。妙にかしこまることなく、敷居は低く、しかしだからこそ親身になってクルマの面倒を見てくれる。人間で言うところの「町医者」的な頼れる存在。それこそが、かつてボクが憧れた「クルマ屋」の真のあり方だったと思う。
ともあれそれが商売である以上、そこに明確な儲けがなければ成り立たないのは当たり前の事実である。そしてその儲けを生み出すには、技術であり、センスであり、さらには効率であり誠意といったものまでが生きてくる。しかし、である。ただ真っ直ぐにそれらを追い求めているようでは儲からないのもまた、リアルな現実だったりもする。
そう、純粋なだけでは今どきの「クルマ屋」は絶対に儲からない。でも、だからこそ純粋にクルマを愛し、それとまっすぐ向き合う「クルマ屋」は真に貴重でもある。
どこか禅問答みたいなややこしい話になってしまったけれども、気づけば効率重視のデジタルエイジなまるで白物家電のようなクルマが溢れ返る冷めた現代において、それでも諦めずにクルマに対して熱い何かを持って向き合える「クルマ屋」の存在って貴重だよなと、正直ここ最近、どこかクルマに対する情熱が冷めてしまった元マニア系クルマ雑誌編集長はしみじみ思うのである。
というかこの支離滅裂な展開、深夜3時に妙なテンションで書いてるコラムということでどうかお許しいただきたい……
本当はこのコラムでは前回の続きで、今どき稀有な熱さとほどよいテキトーさ、そしてそこに天性のバランス感覚をもって商売としても上手にクルマと向き合い、何よりクルマに対する純粋さを失わずに「町のクルマ屋」であり続けている二人のアニキについて書こうと思っていたのだけれど、肝心の書き手自身にどこかクルマに向けた純粋さとの距離が生まれてしまっていて上手く書けないという現実———そうか、やっぱりうわべだけなぞって上手く書こうと思う時点でアカンのだな。
よし、こうなったら「書く」のではなく「聞こう」———そう、純粋に編集者の本分に立ち返って、まずは本人たちの言葉を聞いてそれを改めて自分の言葉として編んでみよう。
というわけで、次回のこのコラムは「鹿ちゃんナオちゃん」への直撃インタビューとしたいと思います。俄然ワケのわからん展開で恐縮だけれども、そういう行き当たりばったりな感じが筆者本来の持ち味ということで、どうか皆さま「次回」にご期待を。
てかもう4時じゃん。おやすみなさい。